記憶について。
記憶が始まったという時期についてだ。 自学的に写真なので振り返ってみて記憶した。 または思い出したというものではない記憶の出発点は、幼い頃、横になりながら機動武闘伝 G ガンダムの最終話を見ていたのが私の記憶の出発点だ。 それ以外の記憶はどこか写真なので振り返ってみて新たに記憶したような気がする。 ブロックで遊んでいる子供時代、本を読み聞かせてもらっている子供時代。 そのどれも写真などアルバムに載っていたものの焼き直しのように感じるのだ。 そういう感じが、全くない記憶の出発点が機動武闘伝 G ガンダムの最終話だというのは不思議な事だが、全く焼き直しではないと思える記憶はそれだけなのだ。 そこから始まった記憶は子供心に捕まえたカマキリを育てた事や、ちょうちょをつかまえて喜んでいたり、セミを祖父に捕まえてもらい、しばらく虫かごの中においてその蝉の音を聞いていたりしたことは覚えている。 それは焼き直しではなく思い出として確かにあるものだ。 記憶の出発点というものは不思議なものだ。 それ以前のや自分が存在していないようなものだからである。 記憶が存在しないということはそれまでばぶばぶと泣いていたりおしめを変えてもらったりしていたことは覚えていないということだ。 親からすれば悲しい事だろう、最も苦労している時期のことを我が子は全く覚えていないのだ。 だが、子供からすれば軟便が尻についた気持ち悪さや、無理やりおむつを変えられる不思議さも経験しないで済むのだから良いのかもしれない。 そう考えると機動武闘伝 G ガンダム最終話を記憶する以前の私は完全なオートマンと言える。 だが、このオートマンが実はすごいことをしているというのが最近の科学者の中で定説だ。 まず顔認識するためのデータベースを作っていると言われている。 この時に様々な人間の顔を見ることによって人間の顔を見分けることができるようになるようだ。 そしてさらには様々な言葉のデータベースも作っているという。 この時に赤ん坊にどれだけ話しかけたかでそのデータベースの精度や多様性、語句の多さなどが決まるという説がある。 つまりどういうことか。 赤ん坊に多く話しかけてやり、甲斐甲斐しく面倒を見てやるとその赤ん坊はその愛情の分だけ言葉が多様になり喋れるようになるということだ。 つまり言葉がしっかりしているということであり、言葉がしっか...